☆鈴木三重吉の雑学(2)

歴史 広島 子ども
(第02回)
鈴木三重吉の雑学
ここ、広島では、まだ梅雨です。
天気のせいか体調不良が続いたりするので、不定期シリーズで雑学話でもしようかなと思います。今日は鈴木三重吉の話の続きです。


☆明治当時の小学校の授業は、教育勅語とセットになっていて、堅苦しく、生徒たちはすべて受動的で、教育内容も画一的な知識の詰め込みに終わっていた。
大正デモクラシーの影響で、『赤い鳥』が生まれたと言ってもいい。

第一次世界大戦を境にして、文語体が口語体になっていったが、明治四十三年(1910)〜大正十一年(1922)のころは、まだ難解な漢文派への深い執着が、森鴎外など文豪たちの間にいたるところに見えていた。

鈴木三重吉は、口語語で素朴な言葉を選んで表現することが、真実感を読むものに懐かせると言っている。彼にあっては、子どもの書く文章であろうと、そうであるまいと、口頭的言語文がもっとも普遍的で、わざとらしくなく、誇張的でないというのである。


鈴木三重吉は、当時の批評家に、「ネオ・ロマン主義」と呼ばれていた。

☆『赤い鳥』に影響されて、子どもたちも、堅苦しい漢文調ではなく、自由でみずみずしい感性にみちた詩を書くようになった。



北原白秋鈴木三重吉のコンビがなければ、『赤い鳥』もここまで成功しなかったであろう。



(参考文献「『赤い鳥』と鈴木三重吉」)



☆感想

「『赤い鳥』と鈴木三重吉」という論文は、わたしには合わなかったらしく、どうも知りたいことが書いていなかったんですね。たとえば、

鈴木三重吉が童話を発売したけど、いっとき失敗してしまった話や、それを成功させるために、「世界童話大全」という新しい童話を発売した話。

これは、『もっと知りたい 広島県の歴史』(監修小和田哲男)に書いてあったことなんですが、それに興味を引かれたんです。

一度大失敗したのに、再話という手段で、どうやって商業的に復活したのか。
書いてないんだよなあ。この本にも。

ただ、この本には、鈴木三重吉が、外国の民話や童話を、いかにわかりやすく再話したか、
という話は載ってます。
文章表現や技術的なことに関心がある人には、少し勉強になるかも知れません。